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病歴図書室

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古医書のご紹介

 当院には約500種の古医書が保存されています。なぜこのように多くの古医書が松江赤十字病院に存在するのか不思議に思いませんか?その思いから調べてみますと江戸時代にまで遡ることになりました。

松江藩における医学教育の変遷
 六代藩主松平宗衍(むねのぶ)公によって宝暦8年(1758年)に松江市母衣町(現在の松江赤十字病院の所在地)に建てられた「文明館」が松江藩の教学所の創始のようです。
次いで7代藩主松平治郷(はるさと)公…茶人として有名な不昧公…は本草学者小野蘭山の高弟山本逸記を招聘して文化3年(1806年)北堀町に「存済館」を開設しました。これが松江藩の本草学の始まりです。 治郷公の孫である9代松平斎貴公は西洋文物の蒐集家として有名です。
 例えば時計・電信機などがあるようですが、他に多数の洋書(辞典・医学書)を江戸藩邸において購入しています。そしてこれら洋書は斎貴公病沒後、江戸藩邸の洋学教授布野雲平に引き渡されました。 出雲出身の布野雲平は国元へ呼び返されて慶応3年(1867年)には10代松平定安公が「修道館」と称して蘭医学校を開設し、西洋医学校が始まりました。この時、斎貴公蒐集の洋書が松江藩へ持ち帰られ教科書として使用されています。
 「修道館」と称して蘭医学校を開設し、西洋医学校が始まりました。
 「修道館」が明治2年には藩立病院となり西洋医学を学んだ医師によって隆盛をみようとしましたが廃藩置県公布により明治5年に廃止の運命となってしまいました。その後、明治9年に現在の病院新館東側に位置する場所に「患者を治療する傍ら医学生の養成を行うこと」を目的として松江赤十字病院の前身となる松江公立病院が開設され、藩立病院時代の書籍や器械類を借り受けて医学生の養成が行われました。
 そして明治12年に松江公立病院は松江医院と改称され明治17年に県立医学校および松江病院と名前を改めて西洋医学を正式に開始しましたが、2年後にはまたもや国の方針と県の財政によって廃校となってしまいました。この2年の間に187名の医学生の入学があったと記されています。それ以後、県立松江病院として存続し、昭和11年4月に日本赤十字社に移管され現在に至っています。こうして病院の名前が変わっても書籍は引き継がれ数多くの貴重な資料が残されていたわけなのです。

 これらの書籍は長い間保存場所が狭隘であったため分散して倉庫、あるいは箱詰め状態のままで放置されていましたが、保存管理ができるようになり展示コーナーを設けました。古きを訪ねて新しきを知っていただきたいと思います。「古医書」とは、一般には江戸時代末期までとされているようですが最近では明治末期までとするところもあるようで、明治末期までの書籍に絞って紹介します。紹介説明についてご意見がありましたらお寄せください。

解体新書

解体新書

1774年(安永3年)
杉田玄白(1773~1817)
前野良沢(1723~1803)他訳

原著「ターヘル アナトミア」
クルムス <独>(1689~1745)

 1771 年から4年間にわたる苦心、努力の末に出版された日本最初の西洋医学の翻訳書。本文4冊と序文・図譜を挙げた1冊(前5巻)からなり、図譜は、小田野直武(洋風画家)が書き、本書は木版である。 有名な扉絵の上部に右から書かれた4文字は「和東翻訳」、中央の題字は「解體図」、そして下に書かれた3文字は「天真楼」という杉田玄白の雅号であり、中央左右に相対する男女はアダムとイブである。

本草綱目

本草綱目

明 時代
李 時珍(1518~1594)

 高名な医師。各地を旅行しながら薬物採集やその地方独特の民間療法を調べて回った。前25巻の完成までに26年を費やしている。収集薬品集は、1903種に及ぶ膨大なものである。わが国にいは、1607年(慶弔12年)に渡来され、林 羅山が長崎で入手し幕府に献本している。家康は、非常に関心を持ち座右の書にするほどであった。 以後、わが国の草本学は本書の影響を受け、医師・草家の間に広まっていった。

物類品隲

物類品隲

1763年(宝暦13年)
平賀源内(1928~1779)

 讃岐生まれ、25歳のとき長崎に遊学し本草がくを学ぶ。1757年に師である本草学者田村藍水と共に日本で最初の物産会(薬用の動植物の展覧会)を湯島で開催した。以後、6年間に物産会を5回開いた。これらの出品物の中から重要なもの、360種を選んで分類、解説した博物書であり6巻からなっている。この中には、藍水の朝鮮人参栽培法や甘蔗しぼりの図、また蘭書から模写したサフランの図など新しい知識も載せている。これらの業績により源内は、草本・産物学者として評価され、時流に乗って多彩な活躍をしている。この書物は、平賀源内の主著と称せられる。

啓迪集

啓迪集

1649(慶安2年)
曲直瀬 道三(1507~1594)

 京都生まれ。医師。21歳で足利学校に李朱医学を修める。38歳で帰京し、学舎 啓迪院を創立して門人を養成し、「啓迪集」8巻を著述する。 記述法としては、中国の諸医学の記載を抜粋して編集したものでその特徴は、独特のシェーマ方式(原典の文章を区切って同比重の文を何列かに分けて並べるものでその記載の全体像を一目で見ることが出来る)をとっていることである。『本朝医談』のなかで「近古の医書多しといえども啓迪集より盛んなるはなし」とあるが、江戸時代後期にはほとんど用いられることはなっかたと言う。それは、当時の常識では使いこなせなっかたのも事実であり、ある程度の基礎知識と解説があれば利用価値は高い書物である。道三はすぐれた学者であったと共に大の雄弁家であり、諸侯たちは大変尊敬していた。「医は意なり」と常に語っていたと言われる。